Translate to : English ភាសាខ្មែរ 主宰笠原知子の夢の実現まで 笠原 知子(かさはら ともこ) 出身: 栃木県 学歴: 東京教育大学及び東京教育大学大学院(現筑波大学)芸術学科・彫塑専攻修了 1974年26歳で芸術学科彫塑専攻を終了後、2年間アルバイトをしながら作品を創る日々でした。専門を活かせ経済的にも自立できると考え、28歳で高校の美術教員になりました。教員になった当初、高校は一般美術のため、美術全般の授業準備に加えて教師として多義に渡る仕事内容を覚えるのに無我夢中の日々を過ごしました。 教員になった当初の70、80年代は情操教育の重要性が説かれ、人格形成期の子ども達に適正な教育環境が必要という認識がありました。しかし、90年代に入ると学校の教育観が大きく変わり、受験に必要な教科に重点が置かれ、受験の合格率を競い、進学実績を上げるための知識教育を重視するようになりました。受験に必要でないと判断された芸術は軽視され始め、それは芸術教育の授業時間数を減らすという形で顕著に現れました。成果主義が教育現場にも導入され、成長過程の子どもを育むという大局的見地からのおおらかな教育観は消え失せた感がありました。教育における芸術教科の必要性を話し、子ども達へ適正な教育環境をと学校に理解を求めましたが現場の反応は冷たいものでした。無力感が強まり定年より1年早く辞めることにしました。回りから定年まで全うするよう留められたが、すでに、教員を続ける気力は限界に達し、2007年3月、31年間に亘る教師生活を終えました。 カンボジアの大きな空の下、子ども達が「子どもの時間」を楽しめるよう、子ども達の輝いた目に、もっと喜びが増すよう、そして心が満たされるよう、、、。そんな思いを込めて、2008年12月にこの学校を設立しました。 学校設立の経緯 7歳で母を亡くした私は、人の生には終りがあることを幼い時に学びました。高校3年生の進路の選択時、自分の人生の最後に何をしたら納得できる人生になるかを考えたことがこの無料の美術スクールの開校につながったと思います。その当時は、「アジアの貧しい子ども達を応援する何かをしよう」程度の漠然とした考えでしたが、その思いは心の奥深くにに芯として残り、都立高校の美術家教員として働きでしたから、美術表現を通してアジアの子ども達と関わって行こうと云う具体的考えになりました。 教員になって10数年過ぎた或る日、若い時描いた人生を具体化しようと決心しました、教員を辞めるまでの約20年間資金作りをしながらスクール建設の候補地を探しました。ネパール、インドも候補地でしたが、最終的にカンボジアを選びました。カンボジアは、ポルポト政権下で多くの芸術家や教師が虐殺されてしまい、いろいろな分野で指導する教師がいないと知り、私の能力を活かせるのではないかと考え、カンボジアに決めました。私は第二次大戦後すぐの日本に生まれたものですから、似たような状況下にあるカンボジアの子ども達が置かれた状況を推測することができました。 2005年に学校建築の土地を購入 2007年に学校建築を開始。足場の鉄筋工事。 2008年12月に学校建築が完成。 2007年に建築を開始し、2008年12月に、画材費、教材費、指導費等が完全無料の美術スクールをスタートさせました。主な活動内容、目的は、美術表現と日本語の指導ですが、困窮した家庭や子どもの生活支援、学業支援活動も行っております。 カンボジアは教育科目の中に美術がありませんので、多くの子ども達は絵筆を握ったことがありません。成長する過程で絵を描きたいという希望は人間の子として自然な思いと考えますが、カンボジアの子ども達の多くは、絵を描く環境がないため絵を描く経験をすることができません。子ども時代に「子どもの時」を豊かに過ごし、知的好奇心を少しでも満足できる環境を提供し、貧しい家の子ども達が少し収入を得られることも願って活動しています。また、貧しい家庭の子どもは授業料を払って外国語を学ぶことができません。外国語ができることはこの国で職業に就ける重要な能力ですので、貧しいために外国語学習をあきらめている子ども達に日本語を学ぶ環境を提供し、彼らが将来、職を手にできるようにと願って活動しています。 主宰笠原知子のインタビュー動画 動画を見る